【コラム】パズル

私の記憶が確かなら、新チームになって3度連続のコラムに筆をとった記憶はない。

前回のコラム、そして、今日のコラムは「それくらい」筆をとらずにいられない衝動に駆られた。

 

前回のコラムは、実を言うと10分もかからずに打ち終えた。

そして、読み返しもすることなく、躊躇せずに送信ボタンを押した。

それくらい、飾らない、文法や構成など考える気すら起こらない、いわゆる居酒屋でくだを巻くような勢いでキーボードを叩きつけた。

(実際、3本目の缶ビール片手に打ち込んだのだが笑)

 

これを「本音」という。

 

冒頭から脱線してしまった。

本題から入ろう。

今日、なぜ懲りずに3回目のコラムを書く気になったのか?

それはキミたちに心から「謝りたい」からである。

 

実は9月22日にコラムを打った日も…

そして、その翌日も…

 

僕は「キミたち」を信用していなかった。

 

とは言っても…どうせ、コイツらにはこんな「オモイ」は伝わらないんだろうな…

そう、思っていた。

 

時は経ち…

大事な大事な、第二節を迎えた今日。

球場に車を走らせながら、それでもまだ「キミたち」を信用していない僕がいた。

 

またあの日のように、声も出ず、お通夜のように暗い表情で、野球をやってるんじゃなかろうか…

どうすれば、コイツらは息を吹き返すんだろう…

そんな「疑心」と「懸念」ばかり考えながら、ミツトヨスポーツパークの駐車場にクルマを駐め、重い足取りで球場に足を運んだ。

 

球場が揺れていた。

大袈裟じゃない。

僕は初めて、球場が「揺れて」いるのをこの目で見た。

僕が球場に着いたのは1回裏の東広島の攻撃中だった。

 

尋常じゃない盛り上がり。

尋常じゃない声。

そして、尋常じゃない選手たちのキラキラした輝き。

 

一瞬、10-0くらいで勝っとんか?!

と、錯覚し、スコアボードを2度見した。

何度見ても、スコアは1-0である。

 

一人だけアウェーのような感覚で三塁側応援席に着き、応援する保護者の表情を見て、込み上げるモノがあった。

「ぞこ」にいる全員が、とても幸せそうなのである。

試合の内容や勝ち負けじゃない。

 

世界中で誰よりも一番大切で、誰よりも大好きな「我が子」たちが、

勉強よりも、ゲームよりも大切で、何よりも一番大好きな「野球」を愉しんでいる姿を見れるコト…

そんな「ささやか」で「当たり前」のコトが、ようやく叶った…

そんな、親としての「本来の幸せ」を、ここにいる全員が噛み締めているのである。

 

そんな空間を創り出してくれている「正体」って…

僕はもう一度グランドの「匂い」を嗅いでみた。

 

そこにはまぎれもなく、確かな匂いがあった。

それは「覚醒」という名の、未熟な殻が破れ、何かが脱皮した匂いだった。

 

この「匂い」は残念ながら、どんなに素晴らしい役者でも演じきることは出来ない。

そう、「フリ」で出来るほど生易しいモノじゃない。

 

人が本気で「シビれた」とき。

人の心に本気で「突き刺さった」とき。

人が本気で「泣いた」とき。

 

そして何より、「オトコ」という名の「本能」が目覚めたときに香る、不思議な匂いなのである。

 

9月22日の無様な自分。

 

今、目の前にいる30人が「同じオモイ」「同じ悔しさ」「同じナミダ」を流したのだろう。

そうじゃなきゃ「ここまで」人間は変われない。

ここまで「急激に」変われない。

 

僕が常々選手たちに発しているコトバがある。

変われるヤツは「一秒」で変わる。

変われないヤツは「一年」経っても変われない。

 

僕はズッと考えていたことがあった。

どうゆうヤツが変われて、どうゆうヤツが変われないのか?

最近、その答えが何となく解ったような気がする。

 

その答えは「本当に無様な自分」と出会えた(気付く)か、出会えてない(気付いてない)か。

う~ん…やっぱり上手く言えない。

とにかく、今の自分が「無様」だと、自分が感じているか?感じていないか?の差なんだろう。

周りがいくら「ダメだ!」「情けない!」「情けないと思わないのか?!」と叱責しても、自分が心の底から「情けない」と思わない限り、心の奥底では「なにが情けないんだろう…?」とウンザリしながら説教を聞いてるだけ。

 

ここからは「僕の」お得意の妄想話となるが、飽きずに聞いて欲しい。

 

昔、僕が悪さばかりしてた頃、何度も何度も警察にご厄介になり、その度にウチの親父が謝りに来ていた。

何度も殴られ、何度も何度も説教され、何度も何度も親父やお袋と衝突した。

当然、自分がしていることは悪いことだと分かっていても、殴られる痛さも、説教の内容も、クソ食らえ!くらいにしか思っていなかった。

そして、高校一年のある日、また大きな事件を起こして、今度は遂に家庭裁判所ご厄介になり、親父と一緒に裁判所で裁きを受けることになった。

さすがにもう…許されないだろう…

今日という今日は、ただのボコボコじゃ済まないかも知れない。

長い長い説教どころか、親子の縁さえ切られるかも知れない。

でも、いいや。そうなったらそうなったで、俺ひとりで生きてってやるさ!

当時の僕は、そう開き直って覚悟していた。

 

そして裁判所でかなり厳しい処分を下され、僕も親父も詫びを入れ、二人で裁判所の門をくぐって外に出た。

「正弘…」

低い声で親父がつぶやいた。

さぁ、来るぞ。

僕は少し覚悟を決め、目をつぶり、思いっきり歯を食いしばった。

 

「・・・腹へったのぅ。ラーメン食いに行くか。」

 

呆気にとられたような顔をした僕を残し、親父は何事もなかったようにクルマに乗った。

その後、呉の小汚いラーメン屋に入り、僕と親父は、一切、言葉も交わさず、ふたりでラーメンをすすり、そのまま家に帰った。

家に着いても、お袋もなにも言わず、ただ一言

「おかえり」

といって、いつもと変わらず晩飯を作ってくれた。

普通のメシで、取り立てて豪勢なおかずがあるわけじゃなく、いつもと変わらぬメシだったが、その日のメシは今まで食べたメシで一番美味しく…そして何より有り難かった。

メシが出来るのを待つ間も、飯を食う時間も、風呂に入るまでの時間も。

親父もお袋も、なにも言わなかった。

風呂から上がり、テレビを見ながら横になってる親父の姿を見て、さすがに気持ち悪くなった僕は、親父の前に行った。

疲れていたのか… 親父はテレビを見ながら寝落ちていた。

 

そこで初めて、何年かぶりに親父の寝顔を見た。

白髪が目立ち、至るところに無数の深いしわが年齢を感じさせた。

 

何分、親父を眺めていただろう。

いつもは顔を見るのも、声を聞くのもウンザリしていたはずの親父の顔を、僕はずっと眺めていた。

親父の顔が、親父の姿がとても情けなく、とても惨めに見えた。

 

気付けば僕は、顔がクシャクシャになるくらい泣いていた。

オレはなにをやってるんだろう…オレはなんて中途半端な人間なんだろう…

声を抑えることもできず、ただただ号泣し、言葉にならない声で、何度も何度も親父に「ゴメンなさい。ゴメンなさい。」と謝っていた。

あの時、親父が寝たふりしてくれていたのか、本当に寝ていたのかは分からない。

そして35年経った今も「あの時の話」は、お互い触れることはない。

 

「あの時」の自分。

それが、僕が初めて出会った「情けない自分」だった。

情けない親父の姿を見て、そこで初めて「情けない自分」に気付いたときだった。

 

そして…

「あの日」から僕は、変わった(…と思う笑)

 

35年以上経った今でも

あの時、食べたラーメンと…

あの時、お袋が作ってくれた晩メシの味は、今でも忘れられない。

 

この話が、今のキミたちにどうリンクするのだろう?と不思議に思うかも知れない。

しかし、人間って、自分のためには頑張れない。

そして、自分のためには変われない。

こうゆうことなんだろう。と思う。

 

世の中で一番、大切な人たちが「涙」を流し

世の中で一番、大切な人たちが「うつむき」

世の中で一番、尊敬する人たちがボロボロになる…

 

自分たちのために、朝早くから起きて働き、たくさんの人たちに頭を下げて、仕事をし…

自分たちの服、自分たちの化粧やおしゃれを我慢して、キミたちのスパイクや服を買いそろえ…

自分たちよりも早く起き、自分たちよりも遅く寝ているにもかかわらず、

グランドでプレーしているキミたちよりも大きな声で、声を枯らし、一生懸命キミたちに声援を送ってくれている。

 

キミたちにとって一番の理解者で、誰よりも大切で、誰よりも尊敬する人たちの姿が!

表情が!

うつむく姿が!

 

あの日(9月22日)、キミたちの瞳の奥に「情けない姿」として、映ってしまったのかも知れない。

 

自分を映す鏡なんて、どこにでもあるわけじゃない。

だから人は自分の愚かさに気がつけない。

でも、自分を大切に想ってくれる人がいるだけで…

その人がいつも側にいてくれるだけで…

必ず「自分」を映してくれる!

 

大切な人たちは自分を映す合わせ鏡なのだから。

今のキミが輝いているのか?

曇っているのか?

生き生きしているのか?

そして、情けない姿なのか?は…

 

キミたちの「大切な人(親)」を見ればいい。

 

その人たちの瞳に映る「自分」を見れば…

今のキミたちの「色」がちゃんと見える。

 

攻守。

オマエは「当たり前」だと思っているだろうが、いつもオマエの目の前には「最低3つの鏡」がオマエを照らしてくれている。

オマエは「当たり前」に、その時間を過ごし、「当たり前」のようにユニフォームに袖を通している。

その「当たり前」に曇りはないか?

その「当たり前」に輝きはあるか?

その「当たり前」に慣れてきてやしないか?

 

攻守!!

野球は「やらされて」やるもんじゃない!

「やりたい」からやるもんや!

いつまで「やらされ」よんじゃ!

オマエは「爺ちゃん」のために変われぃ!!

爺ちゃんのために!この後、一秒後に変わってみぃ!

 

晃多。

オマエを照らす鏡は、フェンスの向こう側から「どんな色」に見えるや?

輝いとるか?幸せそうか?

今のオマエを見たけりゃ、毎回、オマエを見に来てくれている、オマエの大切な人を見なさい。

大切な大切な人を。キラキラ輝かせてあげなさい。

 

27号丸は沈まない。

あの日、あの時、あの一瞬。

グランドの向こう側で…

この子たちはようやく気付いたのだろう。

グランドの向こう側で…

遥か遠くの向こう側で…

この子たちひとりひとりの目に映ったモノ。

 

それが、無様な格好でボロボロになった「大切な人たち」の姿だったのかも知れない。

 

皆さんの姿が、余りにも「情けなかった」のかも知れない。

だから「変われた」

いや…「変わりたい」と、ようやく心の底から思えたのかも知れない。

 

とはいえ、僕はキミたちを裏切った。

キミたちを信用できていなかった。

 

それは、心の底から謝りたい。

キミたちをバカにしていた。

 

長くなったので、最後に3つの進言と、1つのお願いで締めたい。

 

今日のキミたちの「勝利」はただの勝利じゃない。

実際の試合を観戦していない、スコア見ている人には「また…たいぎい試合しようるわい」と嘲笑するだろう。

実際、褒められた試合じゃない。そこは勘違いするな。

 

でも、今日の勝利はキミたちに3つの大切なモノを教えてくれた。

 

一つ目は

キミたちが普段、当たり前のように重ねてきた「勝ち」

それがこんなに「尊いモノ」だと勉強できたこと。

ひとつ勝つのがこんなに難しいモノだったのか…?

そして、たった一つの勝ちがこんなに嬉しいモノだったのか…?

それが、この時期に気付けただけでも大変な財産。

絶対にこの「尊さ」と「嬉しさ」を忘れるな。

 

二つ目は

今日は「勝った」んじゃない。

「負けなかった」んだということ。

言葉遊びみたいだが「勝った」と「負けなかった」では、自力というポイントで大きく違う。

「勝った」は、経験として、どんどん積み上げてゆけばいい。

「負けなかった」は、自信として、どんどん自分を磨いてゆけばいい。

この差は大きい。

 

最後に三つ目は

「やる気」の意味が、なんとなく解ったこと。

今まで余りに漠然として、カタチとして見えてこなかった「やる気」というコトバ。

その「不思議なコトバ」の意味が、ようやく「こうゆうコト」か。

と解ったことが大きな財産。

そして、もっと大きな財産は、やる気を出すって…

「こんなに楽しいモノ」だったのか。

と身を持って体験できたこと。

この「気付き」は、後々キミたちの血となり、肉となり、骨となる。

この三つ目を心の底から「理解」できたヤツが、今日は三人いた。

それが、宗也と翼と悠和だった。

とにかく別人。

目つきと「角」が全て取れた。

この3人は絶対にここから伸びる。間違いない。

 

最後に僕からの「お願い」で締めよう。

何度も言うが、キミたちがたった一週間で「ここまで」変われるとは、夢にも思わなかった。

このまま、止まることなく進化してくれれば、シャークス28年の子どもたちの中でも、歴代5本指に入る奇跡かも知れない。

 

しかし、ここまでは「よくある」感動話。

そして、ここからの転落話も「よくある」話。

 

この覚醒が「ホンモノ」なのか「ニセモノ」なのかは、在り来たりだが、どれだけ「継続」できるかで、その真価が問われる。

継続できなければ「やっぱり」で終わる。

継続できてはじめて「さすが」に変わる。

 

オマエら、オトコに生まれてきた以上…

どっちの道を歩みたいかは…分かっとるよの?

 

ええか?オマエら。

あの日(9月22日)の、オマエらに戻りたいか

あの時(9月26日)の、オマエらで輝いていたいか…

 

それはもう「オマエたち」全員で決めたらええ。

オマエらはまだまだ発展途上。

オマエらはようやく「チーム」になりかけとるレベル。

 

オマエらのなるべき姿は、実は「チーム」じゃない。

「パズル」になること。

 

オマエらは「瀬戸内ファミリー」という30個のピースで出来とることを忘れるな!

このパズルは30ピース埋まって初めてこうゆう絵になる。

誰かひとりでも欠けちゃいけない。

ひとり欠けても絶対に「絵」にならない。

僅かひとつのピースが欠けても絶対に「オマエらの絵」は完成しない。

オマエのたったひとつの、小さな小さなピースが、どれだけチームに必要な存在なのかということを絶対に忘れるな!

 

「親の小言とナスの花は、千に一つの無駄もない」

ナスは花がつけば、ほとんど必ず実になる。

 

それと同じように、キミたちひとりひとりに花が咲けば、きっとその花は実となる。

 

オレたちのチーム(パズル)に、ひとつの無駄なんてない。

 

30人全員で行くぞ!中国大会!

30人全員で掴むぞ!春のセンバツへ!

 

2020年9月26日 | カテゴリー :